「彼が弱い者を踏みにじって見捨て、自分で建てたのではない家を奪い取ったからだ。」ヨブ記 20章19節
神様は、ヨブ記の最初の1章8節で「神を恐れて、悪から遠ざかっている者は他にいない」と、ヨブのことを評価しています。そのように神様は見てこられたのです。
ところが、どうでしょうかここ20章で友人であるはずのツォファルは、ヨブがそうではなくて、ひどい悪人だと言うのです。
これでは、まるでヨブが詐欺師か暴虐な主人であったかのような言葉を投げかけて、ヨブのことを責め立てます。
踏みにじって見捨て、奪い取ったのだと、断じます。
悪を行っている言葉を繰り返して、ヨブの悪、罪が酷いのだと断じるのです。
それだから今、ヨブが苦しみに会い、神様のさばきを受けているのは当然のことなのだと言うのです。
しかも、ヨブはいまだに自分の罪を認めない厚かましい人なのだと責めています。
しかし、ヨブが酷い罪を行う人だから今の苦しみを経験しているのではありません。
どうやら、このツォファルは友人と言いながら、実は以前からヨブの豊かさや人々から受けていた賞賛が、羨ましく妬ましかったのでしょう。
ですから、苦しみ悲しんでいるヨブを慰めるのではなく、むしろ弱っているヨブをチャンスとばかりに追い打ちをかけて、苦しめて、自分が密かに喜んでいるのだと、この20章を読むと分かります。
隣人が弱さを経験している時、それに接した時に、私たちの罪深い心、悪意が心とたましいの奥から湧き上がってきて、自分罪、醜さが暴かれるようです。
神様は、ヨブだけではなく、ヨブの周りの人、特別に友人たちのことも目を注がれています。
私たちには苦しみの原因が分からないことはあるのです。それを認め。
苦しみの原因にばかり目を留めて行くのではなく、そこにいる苦しむ人の隣人となって、慰める人になっていきたい。
イエス様は嫌われている人の友人となって、その人への批判さえも代わりに受け止めて、慰め励ましてくださいました。
私たちも、ヨブを責めるの人にはなりたくありません。
慰めの言葉と行動ができる信仰者となっていきたい。
シャローム
