「わがぶどう畑になすべきことで、何かわたしがしなかったことがあるか。なぜ、ぶどうがなるのを心待ちにしていたのに、酸いぶどうができたのか。」 イザヤ書 5章4節
主が心待ちにしていたぶどうとは、いったい何のことでしょうか。
それはイスラエルの民の信仰が育って、良い実を結ぶことです。
しかし、イスラエルの民の信仰の実は、外見ばかりを取り繕い、主にだけ信頼することのない信仰となっていました。
主は、ただ期待して待っていたのではありませんでした。
2節では、主がぶどうの結実を願って恵みを施したことが記されています。
畑を掘り起こして余分な石を取り除けました。
主が、自らぶどうの木を植えられました。
そして、やぐらを立て、ぶどう酒のために踏み場も作りました。
手間をかけ、見張り守り導きました。
しかし、実ったのは酸いぶどうでした。
期待した実りではありませんでした。
それなので主は、さばきをおこないます。
イエス様も、エルサレムで空腹を覚えられた時、いちじくの果実を求めて、木に近づかれた時、葉ばかりが立派で実が一つもないことを知ると、嘆かれ呪われました。
あの時もイスラエルの信仰がいちじくの実に例えられてのです。
私たちは、主からたくさんの恵みを受け取っています。
主に守り、導かれています。
そして。期待もしていただいているのです。
その期待には、たった一つの真実の愛のある実を結べば良いのです。
見た目も良く葉を茂らせる必要などありません。
主が期待されるのは、私たちの素直な信仰です。
シャローム
