「罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます。」 コリント人への手紙 第二 3章9節
「罪に定める務め」とは、モーセが十戒を中心とした律法の書に支えていたことを示します。
それに対して「義とする務め」とは、イエス様の福音を伝え、それを聞いた人がイエス様を信じて「義」と認められる、その務めのことです。
比較してモーセより、パウロたちイエス様の使徒の方の務めが立派だと言いたいのではありません。
モーセが主とお会いした結果、その顔が光り輝いた栄光のしるしのことを良いものとして受け止めています。
しかし、パウロたち使徒の顔がモーセのように栄光に輝くことがなくても、良いのです。
律法を知った人は、自分の罪を知ります。
律法とそれに仕える人は、人を罪に定めます。
しかし、罪の赦しと救いを与えることはできません。
「義」と宣言もできません。
しかし、福音に仕える人は、その聞いた人が、そのことばを信じることで、義とされます。
聞いて信じることで罪が赦されて、義とされるのです。
そこには、使徒たちではなく、イエス様の栄光が現れ、満ち溢れます。
喜びが溢れるのです。
ですから、パウロたちの奉仕、その使命は神の栄光にあふれる働きなのです。
そして聞いて、信じた人もまた、神の栄光を証しする人となっていきます。
喜びは連続し、あふれるのです。
私たちは今、その中にいます。
大いに喜びましょう。
シャローム
