「主を愛さない者はみな、のろわれよ。主よ、来てください。」 コリント人への手紙 第一 16章22節

「のろわれよ」ということばを聞くと、現代に生きる私たちはとてもびっくりしてしまいます。
それも主イエスを愛して、罪の赦しを語り、人々に熱心に福音を語っているパウロの口から出てくると、驚きは増していきます。
これは手紙の終わりに挨拶の最後の部分で記されることばだと考えるとさらに、さらに驚くのは私だけでしょうか。
当時は、口述筆記が基本です。自分の手で記していますとわざわざ記している手紙があるわけですから、ほとんどの手紙は、送り手がことばを口に上らせ、声に出して、筆記者がそれを書き留めるのです。
今朝、私は何が言いたいかと言えばですが。
尊敬するパウロの口述筆記をしていた人は、手紙の最後にパウロが「のろわれよ」と、声を出したのを聞いた上で、書き留めたのです。
驚いたことだと、そう感じます。

でも、このことばは、先立つ「主を愛さない者」ということばが大事なのです。
そして、主を愛するパウロは、今、主イエスが再びこの地上に来てくれることを切に祈り求めている熱く強い心で、この手紙を閉じるのです。
主を愛して日々を生きること、教会に集うこと、礼拝をささげること、遠い地で困難を経験している神の家族である他の教会のために、心から献金を送ること。
それらをおこない、主イエスを愛することを表すことを、パウロはしているのです。
そして、特別に愛するコリントの教会(手紙の受け取り手)が、さらに主を愛して、行動することを望んでいるのです。
そして、コリントの教会の人々は「主を愛する人」であると、パウロは信じているのです。

のろわれよとは、パウロは自分がのろわれてもかまわないけれど、コリントの人たちと手紙の終わりに名を上げたアキラとプリスカたちが、主に愛されて、主を愛する生活ができることを祈り求めて、このように激しいことばを使ったのです。
それほどに、パウロはイエス様を愛し、コリントの教会を愛しているのです。
ですから手紙の最後にこのことばを記し、そして、最後に「主よ、来てください」とパウロの願いを声にしたのです。

私たちも、今、主イエスを熱く愛し、教会の兄弟姉妹のことを愛していきたいと思います。
そして、主よ、来てくださいと、私も実際に声に出して祈りたいと思います。

シャローム