「いったい、どこに私の望みがあるのか。だれが私の望みを目にするのか。」ヨブ記 17章15節
ヨブが絶望していることがよく分かる言葉です。
自分にはもう、望みがどこにもないと声を上げています。
誰が見ても、ヨブにはもう、望みの欠片もないと見えるはずだと、声を上げます。
それほどにヨブは絶望しています。
ヨブには今、このように吐露する他に口にする言葉が見つからないのです。
それほどまでに絶望しています。
3節の言葉などを読むと、ヨブは誰も自分には寄り添ってくれないと、嘆いているのだとわかります。
ですからヨブは絶望するのです。
神に見放され、友人たちに見放されたと絶望しています。
ヨブはもう何も期待できないと思っています。
絶望してしまい、立ち上がることができない時こそ、本当ならば、目を上げて天の神に期待して、祈ることが必要なのです。
主を信じて祈る「希望」とは、期待できない、普通ならば望こともできない時にこそ主に期待して希望を持つこと、そのものなのです。
しかし、この時のヨブには、そのように祈る心もなくなっています。
主への信仰が萎えてしまい、完全に失われようとしているようです。
しかし待ちたい。
このような状況に、信仰者が陥った時にこそ、あわれみ深い主は力強い御手を伸ばしてくださるのです。
私たちは、主イエスを信じるならば、絶望を希望にと変える信仰を持ち続けたい。
絶望を、主が希望に変えてくださる。
シャローム
