「しかし、それが何だというのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。そうです。これからも喜ぶでしょう。」 ピリピ人への手紙 1章18節

ピリピの手紙を読みます。
パウロはこの時、投獄されています。
そして、パウロが教会にいないときに、パウロの代わりになって、自分を誇ろうとする人たちが現れているのです。
しかし、パウロは今、牢獄の中でも喜びを失っていません。
それはパウロを支えて、祈ってくれるピリピの教会の人たちがいるからです。
いえ、もしみんながパウロの敵になったとしてもパウロの喜びは失われないのです。
何故なら、投獄されたのも、キリストの福音を伝えたためだからです。
パウロがイエス様に誠実に仕えることができるならbパウロは喜ぶのです。

ですから、パウロの代わりに自分が有名になってやろうとか、パウロの留守にキリストの福音をパウロより上手く伝えようと、その動機が不順でも、パウロを苦しめようと活動したとして「それが何だというのでしょう」と、パウロは告白できるのです。
キリストが伝えられるなら、多くの人がキリストを知るならば、パウロは牢獄の中ででも喜ぶのです。
キリストが一番なのです。
キリストの名が告げられ、声に出されて、広がることがパウロの喜びなのです。
それ以外のことは何でもない、小さな問題です。
キリストのために生きている大きな喜びには比較にならないのです。

牢獄に捕えられても、教会人を思い、喜びを口にできる信仰を持ちたいものです。
シャローム