「ピラトは言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」 マタイの福音書 27章23節
イエス様が正しいことをしたのか、あるいは悪いことをしたのか。
悪いことをしたから、死罪に定めようというわけではないのです。
十字架につけたい、殺してしまいたいのです。
1節でも、祭司長と長老たちが、イエス様を死刑に定めようと協議しています。
彼らは罪をさばくのではないのです。
自分たちにとって都合が悪いイエス様を排除したいのです。
同じ心があります。
でも、祭司長たちは、これまで常にイエス様と対立してきました。イエス様のことを憎んでいるのですから、死刑にしたいと思うのでしょう。
では、民はどうなのでしょう。
イエス様は神について教え、神の愛を表し、病を癒やし慰めを与えてきました。
そんな恵みを受けてきた人たちのはずです。
ピラトの問い掛けに人々は真っ直ぐに答えていません。
悪いことを挙げることなどできないはずです。
それならば十字架につけることなどできないはずです。それなのに何故。
それはイエス様が彼らが望む救い主ではないと知ったからです。
本物の救い主なのかどうかではなく、自分の思い通りにして暮れる、自分が願ったものだけを与えてくれる救い主を求めているのです。
そして、イエス様がそうではないと分かったので、民はイエス様を拒むだけではなく、排除してしまいたかったのです。
これこそが罪の心です。
神様に従うのではなく、反対に神様を自分の思い通りに動かしたいのです。
正しく神の声を聞くのではなく、十字架につけろと叫び続けることで、神様からの正しい声をかき消して、罪を悔い改めない人の姿が、ここに現れていると思います。
私たちは、静まって神様の声を聞く姿勢を常に保ち続けていきたい。
祈る前に、叫ぶ前に聞く人でいたいものです。
シャローム
