「しかし、そういうわけで、あなたがたが一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません。」 コリント人への手紙 第一 11章20節
ここ11章は、イエス様が十字架で処刑される前夜に、弟子たちと最後の晩餐を取って、聖餐式を定めてくださったことを記しています。
同時に、コリントの教会で起きていた教会での交わりの食事、愛餐の時の問題について、パウロは厳しく指摘しています。
それは裕福な人が貧しい人たちを顧みなかったという問題でした。
教会で集まった時に、裕福な人たちが、持ってきた食事を食べるのですが、その時に、食事を用意できない貧しい人たちを顧みることがなかったのです。
自分たちだけが食べて楽しんでいたのです。
パウロは、そんな食事をした後で、主イエスの聖餐を受けることは、信仰者として正しくないと叱責するのです。厳しく。
彼らは、この時、教会に集っていても、主イエスに在って、一緒に集まっていることにならないのです。
パウロは、この11章の冒頭でも4章16節で語ったように、キリストに倣い、自分に倣うようにと語ります。
決してパウロが自分を誇っているのではありません。
キリストに倣い「隣人を自分自身のように愛しなさい」という、イエス様の命令を守ることを教えているのです。
愛する心と行動がなければ、それは主の教会に一緒に集まっていることにはならないのです。
そこで執り行われる聖餐式と愛餐の食事は、形だけの空しいものとなってしまうのです。
聖餐はもちろんのこと、愛餐の時も、主の愛を真ん中にして、主の栄光を表すのが、信仰者の生き方です。
主イエスの教会に集まれることは幸いなのです。そしてその集まりは、主の愛で愛し合い、愛が表れていかなければならないのです。
完璧にするのではなく、愛することを忘れないで、パウロに倣っていくのです。
そこに主イエスの愛があります。
シャローム
