「パウロは、「私は、ユダヤ人の律法に対しても、宮に対しても、カエサルに対しても、何の罪も犯してはいません」と弁明した。」 使徒の働き 25章8節
ユダヤ人たちの妬みと憎しみから訴えられたパウロは、総督の監視下の元で鎖につながれたまま過ごしていました。
2年という長い期間を投獄されたままで、正しい裁判もおこなわれなかったのです。
後任の総督が赴任しても、事情は良い報告へと変わる傾向はありません。
しかし、変わらない大切なことがここにありました。
パウロのことばと訴えている内容です。
それは何も変わりません。
解放されるために、証言を変えるようなこともありませんでした。
この後、パウロは無実を、ローマ皇帝のカエサルに訴えることとなり、ローマへと護送されるのです。
主が、パウロに示されたローマでも証しをするという状況が、裁判をローマで行うかたちを通して、実現するのです。
背後にある主のご計画と導きを感じます。
そして何よりも、ここで大切なことは変わらないパウロのことばと証しです。
フェストウスは、パウロのことば、証言として19節では「死んでしまったイエスが生きている」ことを主張しているのですと、語っています。
裁判の場面でも、なんであってもこの証しがされて、人々の耳に届いているのです。
そしてパウロの主張は「私は、ユダヤ人の律法に対しても、宮に対しても、カエサルに対しても、何の罪も犯してはいません」このことです。
神の前に正しく生きるパウロなのです。
そのパウロは、何の罪も犯してはいませんと、証しできるのです。
宣言できるのです。
一貫して、イエス様のよみがえりを信じて証しをして、そして、神を愛し、神の前に正しく生きて証しをする。
フェストウスや千人隊長が、証しを聞いて、信じるかどうかは、彼らの責任です。
ただ、パウロは、私たちは、変わることなく神を愛して、神の前に恥じることなく正しく歩み、証としたい。
シャローム
