「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。」ヘブル人への手紙 10章20節
10章は、最初に祭司がささげるいけにえでは人の罪をきよめることはできないことを示します。
毎年、同じいけにえをささげて礼拝するのは、罪がきよめられないからです。
むしろささげることで、自分に罪があること、それがきよめられないことを意識させます。でも、意識することができるのは大切なことです。
しかし、イエス・キリストはただ一度、ご自分の身体をいけにえとしてささげることで罪を完全にきよめました。
ここに「垂れ幕」「肉体という垂れ幕」という、表現があります。
この垂れ幕とは、至聖所の入り口の垂れ幕のことです。神と人とを分つ垂れ幕と受け取れます。
祭司だけが、この垂れ幕をくぐり入ることが許されます。しかし、そのささげるいけにえは完全ではないのです。
今、イエス様はその垂れ幕を破り、神に近づくことができる道を開いてくださったのです。
あの十字架の死の時、エルサレムの神殿の垂れ幕も破れました。いえ、主が破ってくださったのです。
入り口の垂れ幕は避けることができません。避けては通れません。
今、私たちは布でできた垂れ幕ではなく、イエス様という垂れ幕を、信仰によって通り、神との交わりが回復できたのです。
垂れ幕は、見ているだけでは意味をなしません。通り、そしてその先で神と関係を結び、深く交わりをするのです。
シャローム
