「彼はバアルに仕え、それを拝み、彼の父が行ったのと全く同じように行って、イスラエルの神、主の怒りを引き起こした。」 列王記 第一 22章53節
列王記第一の最後のことばがこれです。
「バアルに仕え、それを拝み」 主を捨てて偶像の神を信じて、その偶像の神に支配されていたのです。
ただ他の神々を信じていたと言うことでは終わらないのが偶像を拝むことです。
「全く同じように行って」 罪を行ったと言うことです。
それも主の前に酷い罪を犯し続けたのです。
「イスラエルの神、主の怒りを引き起こした。」 主は、ねたむ神、怒る神です。
それはあわれみ深い神の愛と恵みを自分から捨てた者へのさばきです。
22章は、ユダの王ヨシャファテを中心にして記されるので、分かりにくい書き方だと感じます。
イスラエルの王とヨシャファテとの比較で記されます。
途中まではアハズの名前は記されないで「イスラエルの王」と記されることにも、主の怒りが臨んでいるのだと分かります。
主が立てた王のはずなのに、その主を捨てたアハズの名前は尊ばれないのです。
そして南と北の王国に別れたイスラエルの子らの国は、主の前に罪を重ねて徹底的な悔い改めができなかったことが分かります。
列王記第一の最後のことばが、祝福や恵みのことばではなく「主の怒りを引き起こした」なのです。
主のあわれみや赦しがこの時代の王とその民から離れていることを覚えます。
私たちは、主のみこころの深いところにある「あわれみ」を引き出すような悔い改めと祈りをする者でいたい。
シャローム