「通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。」 マタイの福音書 27章39節

十字架に磔になっているイエスを見る人たちの反応です。
足を止めることもなく、ののしります。
頭を振るのも、相手を嘲笑している態度を表しています。

十字架につけられているのは、重罪人だということです。
この人たちは、イエス様がどのような方なのかということには、関心がありません。
もしかしたら、以前にはイエス様のお話しを聞いて、パンと魚の奇跡を経験した人もいたと思われます。
しかし、彼らの関心はもはやイエス様が話してくださった神の国や神様の愛には向いていないのです。

捕らえられて、死刑になる愚かな人だと、馬鹿にするのです。
自分の罪を知ったのならば、恐ろしくてイエス様が殺されて行くところをののしりながら見ることなどできないはずです。
罪を認めることがなく、向き合うこともできない人たちは、真の神様と出会っても信じることができないのです。
皆で殺す相談をした祭司長たちと同じで、自分の思い通りの預言者や神様を求めるばかり。
神様に、自分が愛されて選ばれていることを知りません。

十字架の上のイエス様を見ることがあったならば、もし、そんなことがあったら。
感謝と心からの悔い改める言葉を、この唇に上らせていいきたい。
いや、その前に、通りすがりでなく、足を止めて見上げ、耳を傾けていきたい。
私の神、主と叫んで、近づきたい。

シャローム