「自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。」 マルコの福音書 8章37節

一つ前の節には「たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。」とイエス様は教えます。
そして、もし自分のいのちを失ったならば、それを買い戻すにはどうしたら良いのか?そんな方法や代わりとなる代価のようなものがあるというのでしょうか。
もちろんイエス様は、そんなものは存在しないと教えるのです。
しかもここでは敢えて「いのち」と表現しています。
生まれて、そしてやがて死ぬ、この地上での命だけのことを指しているのではないのです。
地上での生を終えて、死後に神のさばきを受ける時に、永遠のいのちを持つことができるのか、それとも身体だけではなく、その心もたましいも滅び去ってしまってよいのかと、問いかけ、迫るのです。

いのちを失ってしまったら、もう、買い戻すこともできません。
もう一度、やり直すというチャンスも与えられることはありません。
今、生きているこの時代、この場所で、真の神、救い主イエスを、私の神様と信じるかどうかが問われるのです。
それは今、答えなければなりません。

失ったと、知ってからでは買い戻すこともできませんし、何の益にもならないのです。
しかし、私たちは、大切な、本当に大切な自分のいのちよりも、地上での富や名誉、楽しみといったものに心を奪われやすいものなのです。

私には、対価のあるものを差し出すことはできません。
しかし、既にイエス様が、その罪のないいのちを十字架の上で私の代価としてささげてくださったのです。
対価、代価は既に支払われています。あなたのためにです。

シャローム