「このわたしがエフライムに歩くことを教え、彼らを腕に抱いたのだ。しかし、わたしが彼らを癒したことを 彼らは知らなかった。」ホセア書 11章3節
1〜2節で、神がイスラエルの人たちを深く愛したのに、彼らは、神を裏切り偶像礼拝に走ったことを示します。
神が深く愛するほど、彼らは、神から離れて行くのです。
ここ3節では、歩くことを教え、癒したとあります。
歩くこととは、人々が歩むべき正しい道を、神が教え導いてことを示しています。
そして、遠く離れたところから、教師として教えたというのではなく、腕に抱き愛して、彼らが傷つき倒れたときには癒したのです。
しかし、彼らは知らなかった。
それは本当に知らなかったと言うのではなく、神の愛と正しい道を知ろうとしなかったということです。
愛されているのに、神を愛そう、神様のことを知ろうとしなかったのです。
その上で、自分勝手に都合の良い神々を作り出して、崇めて豊かさばかりを求めたのです。
しかし、8節を読むと、そんな自分勝手な人々のことを神は完全に見捨てることができないと、神様がいかに愛しているのかを語られるのです。
神様が、先に愛してくださっているのに、その愛を知ろうとしないばかりか、神様の導きをも捨てて、好き勝手に歩人たちの姿がここにあります。
そして、それでもなお、愛してくださる神の姿があります。
私たちは今、究極の愛の姿である十字架の愛を知っています。
その愛に向き合って答える歩み方を一歩づつしたいのです。
礼拝の日曜日です。神様を心から礼拝し、神様のことばを聞くことから新しい一週間を始めます。
シャローム