「同じように、良い行いも明らかですが、そうでない場合でも、隠れたままでいることはありません。」テモテへの手紙 第1 5章25節

5章は教会の行う福祉、援助の実践について記します。
特に年を取ったやもめを助けることを丁寧に記します。彼女たちのそれまでの信仰生活に敬意を払って接することを命じます。
同時にここには、キリスト者が罪を犯した時には、丁寧に調べた上で厳しく責めることも命じます。
教会のすべての人の前で責めることまで命じます。20節。
そうすることで他の人が罪を犯さないようになるからだと教えます。
恐れるためだということを語りますが、それは人を恐れるのではなく、人前で恥ずかしい思いをしたくないと恐れることを示すのでもありません。
神を恐れるのです。

神の前に隠れたままの罪はないのです。
それは旧約聖書の時代を見れば明らかです。

しかし、真に大切なことは、25節だと覚えます。
良い行いは、キリスト者の日々の生活の中で、当然、自然にすべきことなのです。イエス様に倣う生き方の時にはそうなります。
そしてそれはやもめを助けることにも現れるでしょう。
その良い行いは、人の目に見えなくても、主の前には明らかであり、天に宝として積まれます。
そして終末の日には間違いなく、イエス様から祝福のことばと恵みが与えられるのです。

キリスト者の行いは隠れたままにはなりません。
キリスト者は世に生きる中で隠れたままでいてはいけないのです。
主の守りと導き助けがありますから、隠すことなく、キリスト者として歩みたいものです。

シャローム