「そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。」 マタイの福音書 26章37節

十字架で処刑される前の夜にゲッセマネと呼ばれる場所で祈るイエス様が悲しみもだえています。
何が、イエス様をそれほどまで深く悲しませてもだえるほどに苦しませているのでしょう。
それは私たちの罪、いえ私の罪です。

イエス様の直ぐ近くには、イエス様が愛されている弟子がいます。
しかし、彼らにはイエス様の悲しみと苦しみが分かりません。
この後で、イエス様を裏切るイスカリオテのユダの手引きによって、武器を手にした大勢の群衆がイエス様を捕らえにやって来ます。
そしてついに弟子たちも皆、イエス様を見捨てて逃げてしまうのです。

弟子たちを愛して、彼らの罪を赦して、神の御国にへと導き入れるために、イエス様は自分の命を犠牲に捧げようとしています。
しかしその罪は、あまりにも大きく深いのです。
全能の主だから簡単に赦したり、身代わりになるというのではない。
その罪の大きさ深さを、人となった御子イエス様は、味わってくださたのです。
本当ならば、私が自分の罪のの大きさ深さに悲しみもだえなければならないのです。
そしてその罪のために滅びるのです。
しかし、イエス様はそんな私を愛してくださった。

愛の方であるイエス様が悲しみもだえなければならないほどに私の罪は大きいのです。
そのことを良く、もっと良く知って、私はイエス様の愛を知っていくのです。
自分の罪を覚えて、悲しみもだえたことがあるでしょうか。
私のために、イエス様は悲しみもだえてくださったのです。
せめてイエス様の愛に答えて必死に祈り続けることができるようになりたいのです。

シャローム