「ヨアブは王の家に来て言った。「今日あなたのいのちと、あなたの息子、娘たちのいのち、そして妻や側女たちのいのちを救ってくれたあなたの家来たち全員に、あなたは今日、恥をかかせられました。」 サムエル記 第二 19章5節
19章から神様と信仰について学ぶのはなかなか難しいことがあると感じました。
ダビデが王宮に戻るまでに、多くの人との関係とダビデ王が元の地位に就くまでの経緯が記されていきますが、出来事やダビデ王と主との関係がよく見えなくて、出来事を読み解き、理解するのに力がいるからです。
でも、すべての出来事の背後には愛の神様の御手があることは確かです。
謀反を起こしたアブサロムが戦いの中で死んだことで、謀反は失敗に終わったと言えます。
しかし、父であるダビデ王は、息子アブサロムの死を嘆くことを一番にしています。
一番にしようと選んだのではないのでしょう。人として父としての感情が表に出ているだけであったかも知れません。
しかし、重臣であるヨアブの目には、王の行動は正しくないと映ります。
ヨアブは進言します。
アブサロムの死を表立って一番に悲しむことは、王を愛し、王宮を追われたダビデをなおも愛して従い、王のために命懸けで戦った家来の全員に恥をかかせたとの指摘です。
この背後には、主がおられます。
息子の謀反も、その息子が戦いの中で死んだことも、主の御手の中にあります。
ダビデは主に愛されており、家来にも愛されているので、今があります。
サウル王に命を狙われても助けられ。息子の謀反によってさらに命の危険が増しても、ダビデが守られたのは、主の守りがあったのです。
それならば、アブサロムの名を繰り返して呼んで嘆き悲しむ前に、主の名を呼び、感謝と賛美の声を上げ、家来たちへの感謝と王としての労いの言葉をかけることを選び取るべきでした。
悲しみの感情は押し殺すことはできません。
しかし、感情だけで行動すると、失敗をすることもあるのです。
悲しみの中にあっても、そこに主の恵みと守り、導きがあることを忘れないようにしたいと思うのです。
思い切り悲しんだのならば、それ以上に熱い心で主に祈りの声を上げていきたい。
アブサロム、アブサロムと叫ぶ前に、主よ、主よと、主のあわれみを呼び求めたい。
シャローム