「それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。」ヨハネの福音書 19章28節

わたしは渇くと、イエス様は声を上げられました。
それは神を求めることも知らずに、心も霊も癒されず潤されずに渇き切ってしまった私の心の声の代弁です。
渇き切った私を癒し慰めて、潤すためにイエス様はご自分の命を差し出されました。
完了したとは、私の罪を赦して永遠のいのちを与えるための贖いの業が完了したことを宣言しているのです。
その業は、何一つ足りないことが無く、完全にすべてのことが完了したのです。

私の知らないところで、私を救うための計画が立てられてそれがおこなわれて、今、完了したのです。

そしてイエス様は、完了したと宣言される同時に、渇くと叫ばれました。
イエス様が渇いているのではありません。私が渇いているのです。
私は、咽が渇けばそれを知り、渇きを潤そうと水を求めます。
それなのに、私は私の霊が渇いていることを知らず、神を求めないで、他のもので潤そうと奔走しては、さらに渇くのです。

自分が神から神から離れてしまったことを知り、叫び続ける時、私の咽は渇き切り、舌は上あごに張り付いて渇き切ってしまうのです。詩篇22篇15節より。
しかし今、私は正しく渇きを知り、それを潤すことができる方を知りました。
その答えがここにあります。

シャローム