「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるからだ。あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」 レビ記 11章45節
食べてよい生き物と食べてはならない生き物、また、汚れたものときよいものが、分けられて教えられています。
食べてはならないと命じられ、汚れたならば洗わなければ次の行動に移ることが禁じられます。
その分け方は細かく示されて命じられています。
ただし何故、反芻するが、ひづめが分かれていない生き物は汚れている生き物なのかは示されません。その基準、分け方が示されるのです。
命じられたから、何も考えずに従えと、主は語っているのではありません。
神ご自身がイスラエルの民の神となるために、奴隷の状態であったエジプトから導き出しました。
そして神は聖なので、民も聖とならなければなりません。
自分で身を汚してはいけないのです。
そのためには、聖なる神に近づくために、この命令を守のです。
罪があり汚れた存在のはずの民が、聖なる神の聖なる民となるためには、聖なる神の命令に従うのです。
食べるなと命じられた生き物に関しては、背後に健康への配慮があるとも言われます。
しかし大切なことは、聖なる神が聖と汚れを分けられたのですから、それに聞き従うことです。
聖なる神が、私の神となってくださるために、私に従うべき聖に関して命じるのです。
聖さについて、私には判断ができないのです。主が教えます。
そして罪と汚れの中にいた私を導き出し、連れ出してくださった方が、身を汚すなと教えているのです。
従わずに「何故ですか」と問いかける前に、従っていく中で聖さについて学び身につけていくのです。
聖なる者となるように命じられていますから、従っていきます。
聖さと罪は相容れず、交じり合うことはできないから。
シャローム