「すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、」テサロニケ人への手紙 第1 4章16節

ここ4章では、終末の日に主イエスが再びこの地上に来られる日のことを「来臨」と表現して、教えてくれます。
その日は、間違いなく訪れるのです。
しかし、その日が具体的にいつなのかは分かりません。教えられていませんし、知らなくてよいのだと言われます。
この手紙のことばを読んでいる人に、来臨のその時が訪れた時には、先に地上での生涯を終えて眠った(亡くなった)人も、よみがえらされて来臨の主イエスとお会いするのです。

来臨(再臨)とその時、死んだ人がよみがえらされることは、真実であり、確定していることです。
決して象徴的なことで終わるのでもなければ、たとえでもありません。
確かにそのことは実現します。
そしてキリスト者はそれを目撃し、同時に自分のこととして体験するのです。

しかし、私たちはそのことをどれほど具体的なこと、生き生きとした事実として受け止めて待ち望んでいるでしょうか。
その日のこと、その日に起きることには、分からないことが多いのです。
今、分からなくてもよいのだとイエス様は教えます。

しかし、ここではその時には、号令、御使のかしらの声、ラッパの響きが、あるのだと教えています。
御使のかしらの声というのは、どのようなものなのかは、想像するのも難しいです。
しかし、ラッパの響きならば、今あるラッパの響きから少しは想像できます。
具体的に分かることもあるのです。いえ、具体的に実際に起きるのだと知ることもできます。
来臨のその日には、今の私たち、信仰者に分かることと分からないことが混在しているのですが、それは確かに起きること、私の身に起きるのだということは間違いがありません。
私の生きる人生において必ず起きる、私のところにやってくるのです。

ですから来臨の日を、もっともっと身近に、具体的なこととして捉えて、必死に祈り、待ち望みたいと思うのです。
必死な祈りは実現します。

シャローム