「それで、私の咎を探しだし、私の罪を探り出されるのですか。」ヨブ記 10章6節 (2017新改訳)
ヨブの苦悩、嘆きは、既に限界に達しています。
ヨブはたましいの底からの苦悩を主に叫ばずにはいられません。
叫ぶしかないのです、
生れて来なければ、このような苦しみを経験することもなかったのにとの思いがあります。
同時に、主が自分にいのちを与え支えておられることも知っているヨブなのです。
与えられ、支えられている自分の身を知っていますが、それでも自分の存在、いのちさえも忌み嫌うほどの苦しみの中にいます。
そして叫びます。
これほどまでの苦しみを受けなければならないほどの罪を犯してはいないはずだとの思いです。
罪を軽く考えているヨブではないのです。
それでも神が自分を探り、いったいどのような罪を探り出し、さばきに定めるのか、分からないのです。
分からないはずだと、知っていますけれども、それでもなお、苦しくて叫ばずにはいられません。
人が他人を見るように見抜くのとは違い、神はすべてを見抜かれることを知っています。
その神が自分の何を見抜かれて、罪に定めるのかとの問いかけです。
訴えても、答えがないことを知っているのに叫ばずにいられないのです。
主に探され、探り出されたら恐ろしい気がします。
ここのヨブの苦悩を読むと、私は普段の日々の中で、神、主がどのような目で私を見ておられると、考えているのかと、自問しました。
完全な義の方に見られたら恥ずかしいことばかりの我が身です。
しかし同時にこの方は、愛とあわれみの方だと、知っているのです。
さばきではなく、回復と赦しを求め期待して、神に叫びたいと思う朝です。
シャローム