「しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。」 ガラテヤ人への手紙 3章25節

信仰と聞くと、私たちは自分の内側から現れてきたものだと考えてしまいます。
しかし、聖書は「信仰が現れた」と、教えます。
現れたのですから、私の内側にあるものではなく、私の外から私に与えられたものなのだと分かります。
しかもただ届いたという表現ではなく、現れたと言います。
それまではなかったものが、ある時を境にして存在するようになったのです。

しかも養育係の下にはいませんというのです。
養育される立場ではなきなり、成人した一人前の存在として認められるようになったのです。
律法よりも、信仰、キリスト・イエスに対する信仰が確かなものとして私に与えられたのです。
現れたというのは、救い主が人となって、私たちのところに生まれてくださったことを指しています。
イエス様が人として生まれてくださり、神を信じる信仰が私に与えられたのです。
イエス様という方が存在しなければ、私たちは、本当の意味での信仰というものを持つことができなかったのです。
律法を完全に守り、従い通すことができなかったように。
真の信仰を持って生きることもできなかったでしょう。
しかし今、私たちはイエス様によって現れた信仰を持って、造り主を信じて、神のことばに従うことができるようになりました。
なおなお私たちの信仰は不完全ですが、キリスト・イエスが完全なので、心配しないで信仰に生きることができるのです。
この信仰は、私たちに救いを与えて、希望のある生き方へと私を移してくれました。
今や、キリスト・イエスを信じる人は、信仰がない時とは、まったく違う生き方をしています。

シャローム