「「人の子よ、みよ、わたしは一打ちで、あなたの目の喜びを取り去る。嘆くな。泣くな。涙を流すな。」エゼキエル書 24章16節

主がどのように語りかけても、どのように接してもエルサレムの住民が悔い改めて主に立ち返ることはありませんでした。
それなので主は、徹底的なさばきをおこなうと言われます。
それは厳しいさばきです。
エゼキエルは、そのことを身をもって体験し、そのことをエゼキエルは自身の生活でそれを現して、人々に警告するのです。

一打ちとは、主のさばきを象徴的に示す言葉です。同時に厳しいことを、たった一打ちで倒されることで現します。
目の喜びを取り去るとは、エゼキエルの愛する妻が死ぬことを示しています。
嘆くな。泣くな。涙を流すなとは、愛する妻の死に際しても嘆くなということです。
本当ならば、愛する者の死に際して、十分に喪に服し悲しむ嘆くことが、慰めと癒し、励ましになるのですが、それを禁じています。
しかも、言葉を三重に繰り返していますから、非常に強い命令であり、厳しい行動であると分かります。
それは実際にエルサレムが崩壊しても、先に捕囚の民となった者たちを含めて、誰も嘆くことがないことを示します。
主のさばきを受けるとは、そのように厳しく苦しいことなのです。
人々は嘆くことも悲しむこともできない事態を自分が経験することを受け止めることができたのでしょうか。

それにしても、愛する者の死に際しても、嘆くことが許されない預言者エゼキエルの使命は、なんと厳しく、尊いものなのでしょうか。
主のことばに従うとはそれほどまで徹底する必要があるのです。

シャローム