「イスラエルの神、主よ、あなたは正しい方です。まことに、今日あるとおり、私たちは逃れの者として残されています。ご覧ください。私たちは罪過を負ってあなたの御前におります。このような状態で、だれもあなたの御前に立つことはできないにもかかわらず。」」 エズラ記 9章15節
5節には、ひざまずき悲しみと主の前に恥入ったまま、それでも天の神に向けて手を伸ばして祈る姿があります。
そして、ここ15節では、御前には立つことができない罪人の身でありながらと告白しながら、それでもそのような状況の中から祈るのです。
それは、主というお方は、私たちが罪を自覚した時に、恥入って祈ることをしないよりも、恥じて恥じて、それでもそこから祈ることを待っていてくださる方だかです。
祈ることを許してくださる方だと信じることができるからです。
主はどこまでも完全に正しい方です。私たちはその主の前に罪人です。
でも、罪を無くし、罪を自分で精算してから、御前に出て行くことなど不可能だからです。
私たちは罪を背負ったまま、そのままで主の前に進み出て、祈るのです。
主の赦しと助けを期待して祈るのです。
祈らなければ、何も始まりません、何も解決をしないのです。
しかし、恥じ入ったままでよいので、祈るのです。
手を仰ぎ、手を伸ばして祈るのです。
祈ることができるのです。
シャローム