「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」 士師記 17章6節

「自分の目に良いと見えることを行なっていた」とあります。良いと見える、良いと思えることを行なっているのであれば、それは正に良いことであり、正しいように感じます。
しかし、ここで言われているのは、正しいことを皆んなが行なっていた正しく素晴らしい時代であったということではありません。
最初に「王がなく」とあります。
王制の国で、単に王様が即位していないということではないのです。
中心となる人がいない、生活の根幹をなすものがない、秩序がない状況を示しているのです。
ですから人々は自分の好き勝手に生きているのです。
自分の目に見えるとは、自分がどこまでも中心であり、神様を信じている国の人々のはずなのに、神様を中心にしないで、神様のことばを根幹において生きるのでなく、どこまでも自分が中心です。
皆んなが自分の目に良いと見えることばかりを行なっているのですから、そこには一致も平安もありません。

私の目が一番ではなく、神様の目はどう見ているのかを、私が見ようと望むことが大切になります。
私の目には良いとは見えないことでも、その先には想像しなかった良いものが備えられていることがあるのが、神様の目に良いと見えるです。
その目標に向かって私が従って行こうとする生き方が、真に良いことを行う生き方です。

見るところを間違えないようにしたい。

シャローム