「次の日、朝早く彼らが起きて見ると、やはり、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。ダゴンの頭と両手は切り離されて敷居のところにあり、胴体だけがそこに残っていた。」 サムエル記  第1 5章4節

戦利品として、或いはペリシテ人の神がイスラエルの神よりも強いことを誇ろうとたのでしょう、ペリシテ人は主の箱を持って帰り、彼らが信じる駄権野神殿に置きます。
すると翌朝には、彼らの神の象である駄ゴンは主の箱の前に、地にうつぶせでになって倒れていたのです。3節。
ダゴンを元どおりに戻しますが、さらに翌朝にはあ、地にうつぶせに倒れているだけではなく、ダゴンのぞうの頭と両手は切り離されているのを見るのです。

サムエル記は、2節では「神の箱」と記しますが、3節、4節では「主の箱」と記します。
ペリシテ人がダゴンの神を崇めているので、最初はその神々という考え方に合わせて「神の箱」と記しますが、真の神と偶像の神、主との違いを示すために、倒れたダゴンと比較して「主の箱」と記すのです。
切り離された胴体は、人の手で作られたただの象に過ぎないことを示すのです。
しかし、神の箱には刻まれ、作られた頭や両手はありませんが、ダゴンの象を刻んで倒すことができるのです。

また、うつぶせに倒れると言うのは、地に頭をつけて礼拝する姿勢を連想させます。
主だけにひれ伏して礼拝して崇めよとの、主ご自身の御心が示されているようです。

戦場に主の箱を持ち出した不信仰なイスラエルの民も愚かですが、主の箱を戦利品のように、自分たちで支配、所有できると考えたペリシテ人も同じように考えが足りないのです。
主は、愛する者をも、時にさばき、打ちます。
けれども、主の愛は変わらず、主だけが真の神であることも揺るぎません。
主の箱がダゴンの神殿に収まるはずがないのです。

刻まれた像はどこまでも象に過ぎません。
しかし、主は見えなくても真の神、刻まれ作られた神ではないのです。
私たちは目に見えないものにこそ信仰の確信を置き、希望をもっています。

シャローム