「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」コリント人への手紙 第1 12章26節

父なる神は一つ、救い主である神も一つ、助け主である神ももちろん一つ、そして信仰者は皆、この同じ父と子と御霊をを受け取っているのだということを示した上で、私たち信仰者は一つだと語ります。
そして、一つのからだだけれども、多くの部分からなっていることも示します。繰り返します。
これを読むと、この時コリントの教会では分裂の危機があったことが分かります。
そして自分のことを教会の他の人よりも優れていると誇り、との人を軽んじている人がいたことも分かります。

パウロは、一人一人が賜物のが違うこと。
どちらから優れていて、他方が劣っているということはないことを示します。
さらに、信仰者一人ひとりが部分であって、互いが大切な存在であり、皆が組み合わさってからだなのだと繰り返します。
そして大切なのは、部分としての機能ということではなく、愛し合うからだだということです。

指先が痛んでも、それはからだの痛みであるように、部部に起きることはからだに起きていることです。
ですから、互いに愛し合いなさいというイエス様の新しい命令がここでもからだとしての思いとして存在しているのです。
「ともに苦しみ、ともに喜ぶ」
簡単なことであるとも、とても難しいとも言えます。
教会の中で、自分だけを誇っていた人は、このことが抜けているのです。

自分の喜びは教会の他の人の喜びであり、他の人の痛みは、私の苦しみだと、感じる信仰の細やかさ、鋭さを持っていたいと思う朝です。

シャローム