「罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます。」 コリント人への手紙 第二 3章9節
パウロは、ここで自分たちを誇っている人たちと使徒である自分を比較しながら、福音の素晴らしさを語ります。
彼らは、自分たちこそが栄誉ある人であって、その働きも素晴らしいのだと誇っていたのです。
そして、パウロを見下していたようです。
パウロは、自分が素晴らしい働きをしたのだと誇ったりしません。
そんなことをしなくても、コリントの教会の人たちの内側にイエス様の福音がしっかりと留まっていて、喜びがあるならば、それこそがパウロが主に召された使徒であることを証しをしているのだと語ります。
自分を誇る人たちと、イエス様を誇るパウロ自身を比較しながら、パウロの伝えていることの正しさを証しします。
同時にモーセの律法に仕えていた人たちと、イエス様の福音に使える自分たちを比較して語ります。
律法は、人々に対して自分が罪人であることを教え宣言します。
そこには、悔い改めに導くことはできても、律法を守って救いを得ることはできませんでした。
それでも律法を教えて導く働きは栄誉がある大切な働きでした。
今、イエス・キリストを救い主と信じることで罪が赦されることを伝えて導く使徒の働きは、律法に仕える働きよりも大切な働きとなっています。
罪人を義とすることができるからです。、もちろん、信仰によって義とされるのです。
罪に定める働きであっても、それに真摯に仕える務めに栄光があるならば、福音を伝える働きは、罪人を義とする大切な務めです。
その働きは、かつての務めよりも、栄光にあふれていることは確かです。
ですからこそ、自分で自分の栄誉を求めることはしなくてよいのです。
主イエスの栄光を表して、その働きに仕えるならば、終末の日には、その人は主から祝福されて栄誉をいただけるのですから。
今、私たちは福音を伝える働きを任されていることを喜び、そこにこそ栄誉があることを覚えるのです。
人からの称賛を求めるのではなく、主の栄光を表すことを求めていきましょう。
そこに喜びと真の栄誉があるから。
シャローム