「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。 しかし、私たちは救われない。」」エレミヤ書 8章20節
20節は、19節の前半の民の叫びに続く言葉です。
19節では「主はシオンにおられないのか」と繰り返し叫んでいました。
絶望的な民の叫びです。
これは捕囚の地での叫びです。
主に見捨てられ、捕囚から開放されない苦しみと嘆きがあります。
しかし、そうではありません。
15節を読むと、民は表面的に主に助けを求めていますが、心から悔い改めていないので、主の助けは期待できず、祈っても救いがないと、絶望するしかないのだとわかります。
時が満ちていないから救われないのではなく。
主がどこかへ行ってしまったので助けが来ないのではなく。
主が民を見捨てたのでもないのです。
民が、心から悔い改めることをしないので、救いが与えられないのです。
主はそんな頑なな民のことを嘆き、しかし、見捨てないでエレミヤに語り続け、エレミヤもまた、主に祈り求めます。
それなのに、民は嘆くばかりで、悔い改めません。
それは嘆きながら主に逆らう姿です。
私たちは主が語ってくださるその心を知り、嘆く前に悔い改めることを身につけたい。
「私たちは救われない」と叫ぶ前に「私は主に愛されている」と祈り、いつでも主の前に進み出る者でいたいと思う朝です。
シャローム