「バビロンの王は、すべての勇士たち七千人と、職人、鍛冶千人からなる勇敢な戦士たちすべてを、捕囚としてバビロンへ連れて行った。」 列王記 第二 24章16節
「捕囚として」14節、15節、16節と、このことばが3回繰り返されています。
主は、ユダをその罪のためにさばくと言われました。このさばきの宣言は取り消されることはありませんでした。
ユダは、バビロンに攻め込まれて滅ぼされます。
主の宮の大切な財宝、王宮の財宝に至るまでがことごとく奪い去られるのです。
そして人々も捕囚の民として、遠くバビロンの地へと連れて行かれるのです。
これは主が、徹底的はさばきを行われたことを示します。
しかし、さばきを行うことができる主は、あわれみ深い神でもあるのです。
そのあわれみと愛は、どのように注がれているのか。
囚われて、連れて行かれたユダの民こそが、恵なのです。
滅ぼし尽くされたのではなく、遠い地へ連れて行かれて、そこで残された信仰の民として生きるのです。
もちろん、そこには悲しみ苦悩の日々があります。
けれども、その捕囚の民となった人々から、主は離れてしまうことはなく、愛して守っていてくださるのです。
捕囚として、連れて行かれた人が、愛され残された民なのです。
それは主のあわれみの民です。
主の価値観は、私たちの視点と、行動とはまったく違うのだということを覚えておきたい。
そして今、私たちは主に愛されているのは確かです。喜ぼう。
シャローム