「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」 ヨハネの福音書 7章37節
34節には「探しますが、見つけることはありません」ということばがあります。
イエス様は、ご自分のいのちを私たちの罪の身代わりとして差し出して、死んだ後、よみがえってから天に昇ることを示されています。
そして、天に昇るイエス様のところには、私たちは行くことはできません。
しかし、イエス様が迎えに来てくださって、天の御国でともに生きるようになる日が来ます。
それまでは、私たちは、自分からイエス様のところには行くことはできません。
しかし、今は、イエス様はこの地上において、イスラエルの人々に救いについて語ってくださり、神の国の真理と神様の愛を示してくださっています。
ですから今は、イエス様の近くで、イエス様の語ってくださることばを聞いて、信じることが大切になります。
渇いているとは、神様との関係が正しく結ばれることを望むのかどうかです。
わたしのもとに来てとは、イエス様のことばを聞いて信じることを言っています。
私たちは、渇いているでしょうか。
いえ、渇いていると、自覚して認めているでしょうか。
もし、私には神様がいなくても生きていける、満たされていて、なんの不自由もないと言うのであれば、渇きを覚えることはないでしょう。
しかし、それは見ないふりをして、渇きを否定しているだけなのではないでしょうか。
神様を知らないまま、神様を信じないままで、満たされ続けることはないはずです。
私たちの心とたましいは、神様から離れてしまっていては、渇くのです。
そしてその渇きは、神様以外の他のものでは満たすことはできないのです。
イエス様のもとへ行き、語ってくださることばを信じる時に満たされることを経験し、経験し続けていきましょう。
かの日、イエス様と再会するその日まで。
シャローム