「ああ愚かな人よ。あなたは、行ないのない信仰が無益なことを知りたいのですか。」 ヤコブの手紙 2章20節

主の地上の家族、弟の一人であるヤコブは、初めはイエスを信じてはいませんでせいた。
しかしイエスの宣教の途上で、ヤコブも信じ、十字架の死の後は、明確に信仰を持ったのです。
エルサレムの教会の指導者となっていたというのは、イエスの兄弟だからということで就任したような名誉職ではありません。
ヤコブは主のしもべとして明確な信仰を持ち、それを証しして、行ないにもそれは現れているのです。
ですから、行ないのない信仰が何の役に立つのだろうと、厳しい言葉を語ります。
このあたりはパウロと似ています。

ここでは知りたいのですかと、書かれていますが、これは、知らないはずはないでしょうと言う意味なのです。
ああ愚かな人よとは、行ないの伴わない信仰者のことを指しています。
愚かなとは、空っぽなと、言い換えることができます。

行ないが伴い、口先ばかりの信仰、他人にばかり求める信仰。
何と空っぽで、死んだ信仰でしょうかと、ヤコブは厳しく追求するのです。
行ないがないとは、信仰に生きていないと言うことです。
信仰はアクセサリーのように身に着けるものではなく、自分自身を変えて、罪人から信仰の人へと変わって生きることです。
空っぽでは駄目なのです。活き活きと信仰に生き、行ないがそこに、その人になければいけないのです。
信じるとは、イエスとともに生きることであり、イエスの生き方を生きることです。
シャローム