「斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができるだろうか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができるだろうか。それは、むちが、それを振り上げる人を動かし、杖が、木ではない人間を持ち上げるようなものではないか。」 イザヤ書 10章15節
ここは比喩的な表現が繰り返されています。
「斧」「のこぎり」「杖」は、主が用いた人間のことを比喩的に表現しています。
実際には、イスラエルの国を攻めて滅ぼすアッシリアのことを指しています。
主は、主が愛するイスラエルの国と人々が、主に背き、いつまでも罪を繰り返すばかりで、悔い改めることがないので、彼らをさばくのです。
その時、主はアッシリアを、イスラエルを叩く斧、のこぎりとして用いたのです。
アッシリアは、確かに軍事力のある強い国でした。
しかし、だからイスラエルに勝利したのではないのです。
主が、そのようにアッシリアを用いたのです。
愛するイスラエルをさばくときには、主は、主を信じない人、国さえも用いることができます。
そうすることで、周辺の国々とそこに住む人たちは、主は罪を喰い改めないならば、愛するイスラエルをもさばく義の方であることを知るのです。
しかし、21節以降には、そのさばきの後に残された者が、再び主のあわれみを受けて、祝福されることが記されます。
周辺の人々は、それをも目撃するのです。
主は義の方で、しかし同時にあわれみ深い、愛の方だと知るのです。
そうして周辺の国々、人々からも偶像を捨て、主に立ち返る人が生まれるのです。
斧も、のこぎりも、杖も、どれほど素晴らしい道具でも、それを作り、それを用いる人があってその存在と価値があります。
その価値は、主によって与えられ、主に用いられて尊いのです。
私たちは、主に高ぶることも奢ることもできません。
ただ、謙遜に従順に主の声を聞きます。同時に主の愛を受け取っていきます。
シャローム
