「神の人は言った。「私が仕えている主は生きておられます。私は決して受け取りません。」ナアマンは、受け取らせようとしてしきりに勧めたが、神の人は断った。」 列王記 第二 5章16節
アラムの国の将軍ナアマンが、預言者エリシャを訪ねてきて、苦しんでいたツァラアトを癒してもらった時のこと。
ナアマンが癒やされたことを喜び、主こそが真の神様であることを知り、感謝の贈り物をエリシャにしたいと言った時に、エリシャはそれを固く断り受け取りません。
何故なのか。
この後の出来事を読むと、エリシャに仕えていた若者は、エリシャに隠れてナアマンから贈り物を受け取り、自分のものとして隠します。
この若者は主のさばきを受けるのですが、その時にエリシャは若者に言います。
今は贈り物を受け取るべき時でhないと、厳しく言うのです。
それは信仰者には、一つには、果たすべき使命があり、その時があると言うことです。
そして、信仰者は、主が満たしてくださることを信じて、使命に生きることです。
この時は、かつての戦争の相手であり、苦しめられた相手でもあるアラムの将軍を、癒すことで主の栄光を表すことが大切なのです。
その使命を果たすならば、ナアマンから贈り物を受け取らなくても、使命を果たし、ナアマンが主を信じた今、エリシャの必要は主が満たしてくださり、祝福してくださるのです。
主の栄光を証しすることを喜ぶ日々を送りたい。
シャローム
10/2 水曜日
「いいですか、後にいる者が先になり、先にいる者が後になるのです。」」 ルカの福音書 13章30節
主なる神様の与えてくださる恵と祝福は、この地上、この世の価値観とは全く逆なのです。
後にいる者は、私たち日の間では、普通ならば、遅れてしまった者であり、先の人に負けた、価値が劣った人だと、見られます。
しかし、主は、その人が先になると、価値が逆転することを教えます。
また、別の機会には、小さい者が大きい、弱い者が強いと言われたこともあります。
私たちは、他者との比較で価値を測りがちですが、主は、主の目に叶うものに、価値を見出して与えてくれます。
後になっても、主の前に悔い改めて、主に従う人を主は祝福してくださいます。
先に行くことが悪いのではありません。
しかし主は、遅れている人に目を留めて、見出し招いてくださる。
価値を造り出してくださるのです。
主の前に行き、主を信じたことを喜ぶ人は、後になった分だけ、その喜びを大きく感じるのです。
人より先になることではなく、主の前に行けたことを喜ぶ者でいたい。
シャローム