「イサクは答えてエサウに言った。「ああ、私は彼をおまえの主とし、すべての兄弟を彼にしもべとして与えた。また穀物と新しいぶどう酒で彼を養うようにした。わが子よ、おまえのためには、いったい何ができるだろうか。」 創世記27章37節

ここでは主の契約を受けた祝福されているはずのアブラハムの子、イサクの家族に悲しい事件が起きます。
イサクが年老いた時、彼は双子の兄エサウを祝福し、主の祝福をエサウに与えようとします。
しかし、その時、弟のヤコブが母リベカと共謀して父を欺き、祝福を奪い取ったのです。
そして、エサウはヤコブを憎み、殺そうとします。ヤコブは逃亡の旅に出るのです。
何故、祝福されているはずの家族にこんなことが起きるのでしょうか。
それは父イサク、母リベカを初め皆が自分の思いだけで動いたからです。

双子が生まれる前に弟のヤコブがイサクの跡を継ぎ、主の約束を受取ることになると、主は妻リベカを通して語っていました。
それなのにイサクはエサウをヤコブより愛したので一人で、エサウを祝福し祈ろうとしたのです。
リベカは、それを正そうとして暴走しました。ヤコブもそれに同意して、積極的に行動します。
エサウもまた、自分が長子の権利を軽んじたことなど忘れて、祝福を受けようとしたのです。

誰一人、主に祈ることもなく、主の導きと助けを求めることもなく。
自分の計画で自分だけで行動した結果は、家族の中に憎しみが生まれ、別れが生まれました。

ここでイサクが語ったことばが、すべてを現しています。
「いったい何ができるだろうか。」
何もできないのです。
主と祈り語り合うこともなく、主に期待して待つこともなく行動して、祝福は得られません。
自分の力でできることはわずかです。
しかし、主に信頼する人には、主が助けとなり、祝福を与えます。
主は、愛の方であり、あわれみ深いのです。
イサクが主にエサウの祝福を祈り求めたら、エサウが長子の権利を大切にしてきたら。
リベカが策略を図る前に祈っていれば、ヤコブが祈って待てば。
主は祝福を何倍に増し加えて、家族が憎しみと別れを経験するようなことはないのです。

シャローム