「ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関すること、また死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのです。」 使徒の働き 25章19節

ここに登場する人たちはみんな自分の都合の良いことばかりを語ります。
パウロを憎み、どんな罪でもよいから有罪にして処刑するか、あるいは護送の途中を襲撃して殺してしまいたいユダヤ人。
フェストゥスという人は、パウロが有罪か無罪なのかには関心もなければ、正義を行おうという考えもありません。
彼はただ、この後で登場するアグリッパ王には、自分が有能で役に立つと思われたいのです。
そのためにパウロのことも利用します。
それだけです。
ユダヤ人たちとフェストゥスには、義などありません。
ましてやあわれみの心や慈しみの心などありません。

しかし、そんな人たちの思惑をも、主は用いられるのです。
この後で、パウロはアグリッパ王の前で証言し、やがてローマへと行きます。
彼らの悪意や企みが、パウロを遠くローマの地での証と宣教の機会を与えることになるのです。
その背後には、常に主のあわれみとご計画があるのです。

そして大切なのは、パウロはここ19節に記される通り「イエスが生きている」と、証し続けていることです。
その証しをフェストゥスが、アグリッパ王に伝えています。
真の証しが苦しめられている中でも広がり、まさに証言となって語られるのです。

私たちも「主イエスは、今も生きておられます」と、大胆に語り、いつも証しする人でいたい。

シャローム