「すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』」 マタイの福音書 25章40節
王が、終末の日に王の元へと迎え入れる人たちに向かって、彼らが行ったことを明らかにします。
空腹の時に食べ物を与え。渇いていた時には飲ませ。旅人であった時には宿を貸し。裸の時には服を着せ。病気をした時には見舞い。牢獄にいた時には訪ねたのだと、告げます。
それなので、この人たちは王に迎え入れていただけるのです。
一方で、これらのことをしなかった人たちは、呪われた人と呼ばれて、滅びへと引き渡されます。
この人たちは、自分たちは正しい人で、王に祝福されるはずだと考えていたのです。
しかし、王のことば、決定は逆でした。
迎えていただける人たちは、自分たちが王様(神様)に対して何ができたのか分からないのです。
王は解き明かします。
王にではなく、隣人の、それも一番小さな人。存在が小さく、自分を誇る人たちからは見向きもされなかった人たちに対して、愛を注いだからだと。
愛を注ぎ、小さな働きをしたからだと、王は教えます。
何か、大きなことを成し遂げたか、人から称賛される立派なことをしたのかどうかが、王様が迎え入れる人を選ぶ基準ではないのです。
王様(神様)は、小さな一人を、ご自分の兄弟と呼んでくださる。大切な存在、価値ある存在だと認めてくださるのです。
ですから、私たちも小さな一人として、隣人の小さな存在の一人に対して、私が神様に愛されたように、その愛に倣って愛の手を伸ばすのです。
私の伸ばした手が何かをできたかではなく、イエス様の助けを信じて私の手を伸ばすことが大切なのです。
その時、王は喜んでくださり、私をさらに愛してくださり、私にまた手を伸ばす力をくださるのです。
かの日(選り分けられる最後の日)に、主イエスにお会いするのを楽しみできる毎日の歩みをしたいものです。
シャローム
