「王は彼女に言った。「どうしたのだ。王妃エステル。何を望んでいるのか。王国の半分でも、あなたにやれるのだが。」」 エステル記 5章3節

法令を破って、王の召しがないのに王の前に立つエステルに対して、王は王の笏を伸ばして、エステルを受け入れます。
本来ならば、その場で処刑されて殺されるはずでした。
勝手に王の前へいくのは、王の暗殺、王への謀反を疑われて、その場で殺されるのです。何の弁明も許しを願うことさえできないのです。

ところがこの時、王は賊座にエステルを許して受け入れてくれます。
その上で、王の方から何を望んでいるのだと、尋ねてくれるのです。
エステルが意味もなく、法令を破るはずはなく、王の前に来るならば、それは王にしかできないことをエステルが願い求めるはずだと、王は理解していたのです。

この後も、祝宴に招かれた王は、エステルに、望みは何かと、繰り返し聞きます。
それもかなえてあげようと、いう言葉とともに尋ねます。

エステルのこれまでの王の前での生き方、言葉が誠実であることを王は知っているのです。
主を信じる人の証しとは、こういうことなのだと思います。
すぐに口を開かなくても、相手の方が、その信仰者の普段の姿から、思い計ってくれて、応えようとしてくれるのです。

対してハマンは怒りで行動し、自分の功績を誇って、人に語ります。
そして人を倒そうとして、画策します。
このような生き方をしているハマンは、最後に語らず、誇らないエステルとモルデカイの前に倒れていくのです。
私たちは、普段の生活から、主と隣人を愛して生きることで証しとなっていきたいものです。

シャローム