「その日以来、サウルはダビデに目をつけるようになった。」」サムエル記 第1 18章9節 (2017新改訳)

イスラエル人の兵士のすべてが恐れたゴリヤテを倒したダビデをサウルは、その日から側におきました。
有能で力ある人を、これまでもサウルはこのようにして召しかかえてきたのです。
しかし、都に戻り、町の皆がダビデをほめたたえる声を聞いて、サウルはねたみに燃え、激しく怒り、不機嫌になったのです。

そして9節、その日からサウルのダビデを見る目と態度が変わったのです。
「目をつけるようになった」
あるいは「疑いの目で見るようになった」「うかがった」「ねたみの目で見るようになった」と、日本語の聖書は、ここを様々に翻訳します。
元々は、「罪、咎」「じっと見る」と言う二つの言葉で表されています。

サウルはねたみ、怒りました。
そして罪ある心と咎の目で、ダビデを見るようになってしまったのです。
ダビデの罪を、見抜くとか、咎を見つけ出すと言う目ではありません。
サウルの心と目が罪に覆われたのです。

少し前の3節には、相反する言葉が有ります。
サウルの息子のヨナタンは、ダビデを自分自身のように愛しました。
そしてその心と目は、生涯変わらず、その行動も愛のあるものです。

ねたみ、怒りと言う罪を心に蓄えてしまうのは恐ろしいと感じました。
ほんの少し前には喜びに溢れていたはずのサウルの心が、罪の心となり、咎の目で隣人を見るようになってしまうのです。
そしてその行動も、どんどん過激になり罪を重ねます。

聖書の教えるとおり、自分の目を見張ることは大切だと思いました。
自分の目が、何を、どのように見ているかを、このみことばに照らして確認したいと思う朝です。
シャローム