「では、聞いていながら反抗したのは、誰でしたか。〜」ヘブル人への手紙 3章16節・前半 (2017新改訳)
主なる神様のことば、私を罪から救う福音のことば、主の与えてくださる恵みのことば。
これらの良いことばは、既に神様から私たちに与えられて、告げられています。
そのことばを聞いて信じる人と、聞いて反抗する人に別れるのです。
聞いていない。まだことばが届いていないのならば、信じない、受け入れないということが起きるのです。
しかし神は、聞いていながら反抗する人は、決して御国へは入ることができないと語られます。
厳しいことばのようですが、当然のことばなのです。
何故ならば、聞いたのであれば、そのことばが神の愛から発していることばであり内容だと分かるはずなのです。
何故、聞いたのに頑なになって、受け入れないのでしょうか。
内容が理解できないはずはありません。
あの荒野を旅したモーセに率いられたユダヤの民のように、神のことばがそのまま実現していることを経験しているはずなのに、何故、信じないのかと、神は怒るのです。
水がないと不服を言えば、神は水を与え。
パンだけでなく肉も欲しいのだと叫んだときには、パンとウズラの肉が夕に朝に与えられました。
神のことばは、すべて実現し、恵みとして届いているのに信じて従わないかったのです。
聞いていながら反抗したのは、ことばに問題があるのではなく、聞く人の頑なな心が問題です。
何故、私たちはいつもまでも頑ななのでしょう。
神に従って恵みを受けるより、神に従わないで好き勝手したいのです。
何よりも、従うことが嫌なのです。
荒野の民が反抗した結果を知っていても、反抗することを求めるのが、私たちの罪の性質なのです。
それでも、そんな私に神の愛のことばは恵みとして届いている事実があります。
では、私は聞いていながら反抗する人になるのか、聞いて素直に従う人になるのか。
答えは一つです。
シャローム