「おまえは私に「われわれは、われわれの神、主に拠り頼む」と言う。その主とは、ヒゼキヤがその高き所と祭壇を取り除いて、ユダとエルサレムに「この祭壇の前で拝め」と言った。そういう主ではないか。」イザヤ書 36章7節

36章は、アッシリアの王がユダを侵略した時の出来事を記します。
象徴的な言葉を幾つか見つけることができます。
5節には「口先だけのことば」とあります。
ユダが、エジプトと同盟を結んでアッシリアに対抗しようとしていることを、口先だけの約束で、ユダが守ってもらえるはずがないとの指摘です。
アッシリアの王は、口先だけのことばに拠り頼むのかと、馬鹿にします。
しかし、本来ユダは、エジプトではなく、主のことばだけに拠り頼むべきだったのです。
主のことばは、口先のことばではなく、力ある生きていることばです。

そして更にアッシリアの王は、ヒゼキヤ王が行なった宗教改革も馬鹿にするのです。
ヒゼキヤ王は、偶像礼拝の高き所を取り除き、主だけを礼拝することを命じました。
自分勝手に祭壇を築くことが偶像礼拝に繋がると知っていて、礼拝について規定したのです。

そのことをアッシリアの王は、限られた場所、祭壇でしか礼拝できない神、主には力がない、救い出せないのだと、馬鹿にした訳です。

しかしそうではないのです。
人が勝手に礼拝するのが信仰の正しい姿ではなく、主のことばに従って礼拝することが正しいのです。
また、人は、人のことばを口先の言葉と馬鹿にしますが、主のことばは、ことばに力があり、ことばが与えられることが約束そのものなのです。裏切られることはないのです。
主には、口先だけということばはありません。高く、広く、深い主の愛に裏打ちされた力あることばです。
私たちは、その主が、私たちの幸いのために、日曜日を主を礼拝する人教え、命じたので、それに従うのです。
シャローム