「だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。」コリント人への手紙 第一 10章24節

信仰の歩みを続けて行く時、私たちには試練があり、また、誘惑もあります。
偶像礼拝は、他の神々の像を崇めるだけではなく、仕事や名誉などが自分の偶像にもなるのです。
そのような忠告が語られていく手紙の中で、パウロは、キリスト者には、すべてのことが許されている自由な者だと教えます。
しかし、自由ではありますが、自分にも他の人にも益にならないことがあります。

自由に振る舞うと言うことは何をしてもよいと言うことではないのです。
むしろ、キリスト・イエスから恵をいただき、祝福されている者だと自覚するなら、その自由をどのように用いるかは吟味されるべきです。
選び取る自由があるからこそ、その行動の先に何があるのかを求めます。

自分のことではなく、ほかの人のことを思い。
ほかの人の利益を求めるのです。
しかし、罪人の私には、それはなかなか難しいことです。

そこには、ほかの人を自分よりも優れていると認めて、謙遜に仕えることが求められます。
自分の利益を求めることが罪なのではなく、自分の利益を求めるなかで、それが偶像にもなってしまうことは避けなければなりません。
私は自由です。
その自由さを、多いに用いて、少しでもイエス様の足跡を辿りたい。イエス様が愛したように、他の人を愛する私になりたいと思います。

私の利益とはなのでしょうか。
私が欲しているものは、本当に私の益となっていくのでしょうか。
ほかの人の益が、私の益になっていることも知りたいと思います。
ご自分の利益など求めなかったイエス様と、自由に語り祈れるキリスト者となったのですから、その自由を喜び、用いたいと思います。
まずは、週の初めの日の礼拝を献げて喜びを味わいます。

シャローム