「しかし、私たちを神の御前に立たせるのは食物ではありません。食べなくても損にならないし、食べても得になりません。」コリント人への手紙 第一 8章8節

偶像にささげられた肉とはなんなのか。
そのささげられた肉を、食べることはキリストを信じる者にとって正しいことなのかどうか。
偶像と食物の難しい問題があったのです。

実際には存在しない偶像の神々にささげられた肉と通常に市場で売っている肉と違いがあるのでしょうか。
偶像の神々が存在しないのですから、違いはないのです。肉が変化、変質するわけではありません。
ですから、その偶像の神々の前から取り下げられた肉を食べても、食べた人に何か害があるわけではなく、何か良いこと、得になることがあるわけでもありません。
それは真実です。

しかし、その行為がその肉を食べることを躊躇する人の心に害を及ぼすのならば話は別です。
自分が気にしないで食べることで、誰かが傷つくのならば、その行為は正しい行為ではなくなります。いえ、むしろ害の有る行為となります。

神の御前に立つとは、自分にとって害があるか得があるかが問題ではないのです。
自分の行為が害を及ぼすとしたら、その時、信仰者は神の御前に正しく立っていないことと同じです。
神の御前に立つとは、神を愛することです。
愛のない行いをしたままで神の御前に立つことはできないと、信じるのです。
何をするかしないのかではなく、神を愛しているのかどうかを基準にして生きるべきなのです。
神の御前に立たせるのは食物ではなく、愛するかどうかです。
神と隣人を愛するかどうかであり、また、自分を愛するかどうかです。

シャローム