「地の果てから、私たちは、 「正しい方に誉れあれ」というほめ歌を聞く。 しかし私は言った。 「私はだめだ、だめだ。ああ、悲しい。 裏切り者が裏切った。 裏切り者が裏切り、裏切った。」」イザヤ書 24章16節
24章は全世界に対する主のさばきを示します。
そのさばきは、すべての人の上に起こります。
国、身分などの地上の人々の中にある区別は、一切関係なく、すべての人が主の前に出るのです。
その時、残される者、救われる人はほんのわずかです。
厳しいさばきの預言のことばが続く中で、14〜15節は、残された人、主に贖われた人の賛美の声が記されます。
わずか2節の、賛美のことばは、かえって主のさばきが厳しいことを示すのです。
そして16節、贖われる人がいることを知っても、イザヤの嘆き、悲しみは慰められることはないのです。
むしろさばきの厳しさを訴えます。
そして主に背き、罪を重ねたまま悔い改めることのないイスラエルの人々の罪に、自分を重ねて嘆くのです。
イザヤの言葉として吐露され、繰り返される言葉は罪の深さを強く訴えるのです。
イザヤは主のさばきを語ります。しかし他人事として語りません。
イスラエルの人々の罪を自分の罪として受け止めているのです。
同情心ではありません。
罪に対して鈍感で厚かましい人にはならないのです。
罪が多くあるこの地上に今、生かされていることを覚えて、悔い改めの心と主のあわれみ深い御心をしっかりと受け止めるのです。
罪は他人事ではなく自分のこととして受け止め、そこに主のさばきとあわれみの赦し、回復があることを感謝して、主に最後の日まで従い通すのです。
シャローム