「彼らはギブアに行って泊まろうとして、そこに立ち寄り、町に入って広場に座った。彼らを迎えて家に泊めてくれる者は、だれもいなかった。」士師記 19章15節 (2017新改訳)

レビ人が自分のもとを去った側女を迎えに行く旅での出来事を記す19章です。
レビ人が自分の家への帰り道で立ち寄ったベニヤミンの属するギブアに泊まります。
夕暮れになるまでベニヤミン族の人は誰も彼らを泊めてくれません。
ただ一人、畑仕事から戻るエフライム出身の寄留者の老人が彼らを泊めてくれるのです。

この夜、レビ人の側女がベニヤミンの人々に乱暴されて殺されていくという事件が起きるのです。
ベニヤミンの人々がレビ人の男性を知りたいと悪しき思いを持って迫り、最終的には側女を手にかけると言う恥ずべき行為をおこなったのです。
そしてこの後、この事件は部族全体を巻き込む大事件へと発展します。
そんな恐ろしい事件を19章から始まります。

今朝、思うのは士師記の時代が、大事件が起きなくても、やはり乱れており、主のことばから離れていたことが分かることです。
ここには「彼らを迎えて家に泊めてくれる者は、だれもいなかった。」と、あることです。
広場は、この時代のイスラエルにおいて、単なる公園のような広場ではありません。
大切なことを町の長老たちが決めたりすることもある場所なのです。
レビ人立ちはここに居ます。旅人であることは直ぐに分かるはずです。
その人たちを、だれも泊めません。
即ち、誰も受け入れないのです。
律法は、寄留者や旅人を迎え入れ助けることが教えられています。

しかし町のだれもそれを実践していません。
それがその夜の事件へと発展します。
大きな、恐ろしい事件を起こさなかったとしても、この町の人々は律法に生きていません。

彼らの主から離れて生きる姿が、旅人を迎え入れないということに現れているのです。
小さな罪の積み重ね、ささいなことでも主のことばを守らない日々が、主から離れて大きな罪をおかすのです。
主は、私たちが平安に真に豊かに生きることができるようにと、十戒から始まる主のことばを与えてくださっています。
日々の中で主のことばに親しく誠実に生きることが大切だと思わされます。
シャローム