「すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」 ルカの福音書 24章31節

同じくイエスさまの十字架の死から三日目の日曜日の出来事です。
弟子たちのうちの二人がエルサレムからエマオという村に向っている時に、よみがえられたイエスさまが近づき、一緒に歩き始められたのです。
十字架の死とよみがえられたと女性たちが報告したことなどを話し、イエスさまは二人に聖書全体からご自分のことを解き明かされたのです。
夕刻になり、エマオの自宅にイエスさまを招いた二人です。
イエスさまが、パンを取り、二人に渡された時に、それまでさえぎられていた目が開かれたのです。
そしてこの方がよみがえられたイエスさま、愛するイエスさまだと分かったのです。

見ているはずの時は、見えていなかったのです。
一緒に歩き、聖書について語り合ったはずなのに見えていない。
ところが、見えなくなったら、真実が見えたのです。
私のところにいてくださいと、しきりに願うなら、イエスさまの愛に触れることができて、見るべきものが見えるようになるのです。

私たちが日頃、いかにしっかりと物事を見ていないのかを思い知らされます。
でも、私たちは罪人なのです。この世界のことも見えているようで見えていないのです。目がさえぎられているのです。
しかし、イエスさまが私を愛して、この目を開いてくださる時があるので、私たちは正しく見ることができるようになります。

イエスさまの愛を知る時、私たちは正しく見ることができるようになるのです。
聖書が示している真実と神さまの愛を知って、見ることができるのです。
知りたい、見たいと祈り求めるなら、イエスさまが導き、答えてくださる。
シャローム