「それなのに、あなたがたは思い上がっています。むしろ、悲しんで、そのような行いをしている者を、自分たちの中から取り除くべきではなかったのですか。」コリント人への手紙 第一 5章2節
このとき、コリントの教会に所属しているキリスト者の中に、不品行の罪を行っている人がいたのです。
姦淫の罪を犯しながら悔い改めることのないこの人のことを、教会の他の兄弟たちは知っていながら、その人に悔い改めを迫ることもしていなかったのです。
そして、自分たちとは関係がないことだと考え、自分たちの信仰と信仰生活にも何の悪い影響もないと考えていました。
しかし、パウロはその人は、悪いパン種であって、悔い改めない人の存在は、教会全体に罪を広げることになると指摘します。
ですから、厳しく接して、その人との交流を断ち、その人に悔い改めを迫ることを語るのです。
その人と、以前と変わらない交流を続けることは、キリストにある愛ではないのです。
むしろ、これくらいのことは大丈夫だと、神様の前に高ぶっていることになるのです。
そうではなく、この罪を自分の罪のように重く受け止め、悲しみを持って強く接することが、本当の愛なのです。
キリストの愛は、高ぶる人ではなく、謙遜に罪を悔い改める人の中にあります。
厳しく迫るパウロのことばにキリストの愛があります。
兄弟の犯した罪を、真摯に受け止めて悲しむ人の中にキリストの愛を見つけることができます。
シャローム