「兵が陣営に戻ってきたとき、イスラエルの長老たちは言った。「どうして主は、今日、ペリシテ人の前でわれわれを打たれたのだろう。シロから契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、その箱がわれわれの間に来て、われわれを敵の手から救うだろう。」」サムエル記 第1 4章3節 (2017新改訳)

 イスラエルとペリシテが戦います。
 戦況は、イスラエルが敗けています。
 兵士たちが、敗走して戻ってきたときに、イスラエルの長老たちは、どうしてこんな酷いことが起きたのだろうと、嘆きます。
 そして次の戦いでは勝利できるように、シロに安置されていた契約の箱を戦場に持って来て、主の力を利用して、勝利しようとします。
 箱があれば、勝利できると考えたのです。

 結果は、再びイスラエルの敗北です。それも非常に酷い敗北となり、大切な契約の箱もペリシテ人に奪われてしまうのです。

 どうして?と、敗戦を経験して嘆いたときに、主の前に進み出て、頭を下げ、胸を打ち叩いて、罪を悔い改めようとしなかったのでしょうか。
 どうして?主の箱を持ち出そうとなどかんがえたのでしょうか。そこにこそ罪があります。
 主の前にへりくだり、主のことばを聞くことがありません。

 主に従うしもべではなく、主の力を利用しようとする罪人の王様になっています。
 どうして?
 それは罪を悔い改めることがないからです。
 罪の結果である悪い出来事を、別の罪で隠そうとするようなものです。

 罪を悔い改め、胸を打ち叩いて、主に叫び求めるのであれば、主は、あわれんでくださり、御手を伸してくださったはずです。
 日々の生活で、悔い改めを自分の友とすることができるのかどうかが問われています。

 どうして?と、声をあげて行動する前に、しもべは聞きますと、声をあげるべきなのです。
シャローム