「このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私は募る憂いと苛立ちのために、今まで祈っていたのです。」サムエル記 第1 1章16節 (2017新改訳)

祈っていたのは不妊の女性であったハンナです。
祭司のエリは、ハンナが声を出して祈っていなかったので、神殿で主の前に酔っているのかと思い注意をしたのです。
その答えがここ16節と15節でした。
心注ぎ出す祈りをしていました(15節)ハンナは、エリの的外れな注意にも謙遜な態度で答えたのです。

夫エルカナの、もう一人の妻ペニンナは、ハンナに敵対して、ハンナが不妊であることで彼女を苛立たせ苦しめていました。
ハンナの怒りは相当なものであったことが、6,7節から分かります。

しかし、その激しい怒りと苦しい苛立ちを、ハンナはペニンナにも夫にもぶつけませんでした。
憂いと怒りを相手や周りの人にぶつけるのではなく、その原因である不妊の状態を取り除いて欲しいと、主に切実に祈ったのです。
主の心のすべてを謙遜に注ぎ出し、祈り続けたのです。

私たちには自分の希望通り、思い通りにならないことがあります。
しかもそれが続くこともあるのです。
その上、そのことで心を乱されて、苛立ち、憂い怒ることもあるのです。
そのような心が起きてくることは止むを得ないのです。私たちは弱く小さな存在です。

しかし、その時、その怒りを人にぶつけるのでは、平安を得ることはできず、希望も叶いません。
苛立つ心のことも、怒る思いも、そして希望も、すべてを主に向かって祈るのです。
15節にある「心を注ぎ出す」とは、静かにすべてを主にゆだねることだと思います。
募る憂いと苛立ちも、祈り続けることで変えられていくのです。
何故なら、私たちが祈っているのは、全能で慈しみ深い主なのです。
主は、私の憂いも怒りも知ってくださり、私に恵みを注いでくださる。

主に向かうことが大切です。
シャローム