「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。」テモテへの手紙 第1 2章6節 (2017新改訳)
代価。
私が自分の罪の結果として「死」を受け取ることは決まっていました。
これを自分で解決することはできません。
死を免れることはもちろんできませんし、罪が赦される方法も私にはありません。
しかし、さばきの結果としての死を誰かが代価を支払ってくれれば解決の道は開けるのです。
しかし人は、ずべての人が自分の罪を持ち、その結果の死を受けとらなければなりませんから、代価は支払うことはできません。
お手上げです。
まさに罪の結果なのです。
しかしイエス様が代価を支払ってくださいました。
それなので私は赦されることができました。
その代価、身代わりの死を言い換えると「ご自分を与えた」と言うことです。
罪人の私のために、罪のないイエス・キリストが、ご自分を命を含めて丸々与えてくださったのです。
身代わり、贖いの死とは、愛をもって与えることでした。
しかもです。
たまたま与えてくれたとか、嫌いやながら与えたのではありません。
「定められた時」なのです。
イエス様は、罪人であり、神に逆らって生きていた私を罪から救うために計画を立て、実行し、ご自分で決められたその定められた時に、命を与えてくださったのです。
愛が基盤で計画を立て。
あわれみをもって実践し。
いつくしみを持って与えてくださった。
すべての罪人のため、私のため。
私たちの愛は取引する愛であったり、奪う愛であったりします。
しかし、キリストの愛は無条件の愛で、与える愛です。
身代わりの愛は、与える愛と、もう一度確信する朝です。
シャローム